ちょうど2年前「Blues For Mam」というタイトルで母についてのブログを書きました。
翌月にお誕生日を控えた母にむけて、美しい白髪を讃えたブログでした。
今日は無事に四十九日の法要を終え、母もようやく天国に旅立てたようです。
闘病中、じっと痛みに耐える年老いた母に、身体を摩ってあげることしか出来ない無力感や、傍に居れない時の堪らない心配。
常に背中が縮こまっているような緊張感のなかでも私の毎日は迫ってくる。
「母が死んで痛みから解放されたら、私はホッとするのだろう」と思っていました。
父を早くに見送りました。
人生のパートナーを亡くし、半身を捥がれたような悲しみも経験しました。
母のその時が来るのも覚悟していたはずなのに、魂の抜けた穏やかな母の顔を前にした時の自分の反応は
想像もしないものでした。
ホッとするどころか、根っこが引き千切られて流されてゆく水草のような
なんとも頼りなく不安な感覚に、自分自身が狼狽えてしまったほどです。
穏やかでもの静か。
感情を露にすることなど、ほとんどなかった母。
大口を開けて笑った姿も、語気を荒げた姿も見たことがありません。
いつも静かに微笑んでるような大人しい女性でした。
末っ子の私は「母の金魚の糞」と云われるくらい母っ子でしたが成長するにつれ会話もなくなり
ドライな母娘関係であったと思います。
とうの昔に自立しているつもりでいました。
なんなら、年老いた親を「お世話してあげねば」などと背負っているような気持ちさえ持っていたのです。
最期は、しっかり落ち着いて見送る自信があったのに。。。
それでも「時間」とは有り難いもので、四十九日の法要を終えた今は
そんな弱い自分を苦笑するくらいの余裕も出てきました。
大切な家族も可愛い猫たちも、みんな見送りました。
今は、今世の私のお役目を終えた思いです。
これからは、オマケの人生。
好きな歌をうたい、一生懸命働き、美味しいものを食べ、好きなものを作り、温かいお布団で眠る。
やりたいことを実現できている「今」が本当に有り難いことなのだと実感します。
願わくばこの幸せが続きますようにと祈りながら、私自身が魂の船を降りるその時まで
ユラユラ流れていくのも良いかもしれないと思っています。